人間の光と影-光(2)

無事、借上げ住宅に到着しました。

入る前からある程度のことは聞いていましたが、生活必需品に関しては日本赤十字社を通してすでに用意されていました。

カーテン、ガスレンジ、テレビ、テレビ台、電子レンジ、洗濯機、本当に助かりました。
冷蔵庫は後日届けられました。
品物はとてもいいものばかりでした。テレビは液晶のものでした。
もし自宅に帰ることになっても持って帰ってずっと長く使えるものばかりでした。

今まで自分はあまり寄付などしてきませんでした。
こんなところで誰かの寄付により支えられるとは思ってもみませんでした。

日本中の皆さん。どうもありがとうございました。

すべて今も現役です。大事に使わせてもらっています。どれだけ助けられたかしれません。
自分たちのお金だけではかなりの負担になっていたと思います。

誰かのために何かをすることの大切さ。
今回の震災では痛いほど身に染みてわかりました。
今度は自分が誰かのために少しでも役に立とうと考えました。

ずいぶん前に東京の電車の中でチャイルドスポンサーの制度があることを知りました。
貧しい国の子供の一人のスポンサーになって、継続的に支援するというものでした。
ふと思い出しました。

それで今度は別の国ではありますが、貧しい国の子供達の助けになればと思いチャイルドスポンサーになりました。
月5000円。決して安い金額でもありませんが続けることはできます。
ボクが支援しているのはモルゴンの子です。
年に1度は写真を送ってきますが、当然実際にあったことも話をしたこともありません。
でも、いいのです。同じ人間なのです。
ボクの寄付がその1人の子を救うことができるのであればそれで幸いです。

できる限りつづけようと思っています。

名取市に移ってきてはじめはホームセンターの場所も食品が安いお店も全く知りませんでした。
信頼できる車屋さんもわかりませんでした。
でも、もうここにも約2年住み続けています。いいお店も見つけ、ここに移ってきてからは生活自体は少しずつ少しずつ安定してきました。

自分の町、家がやはり一番いいといえばいいのですが、それでも住居にも恵まれました。

借り上げ住宅に移るまでの約3ヶ月間が一番辛い時期でした。

それからも決して穏やかな日々が続いたわけではありません。
仕事のことなどなかなかうまくいかないこともあります。実際、現在も失業中です。
それでも、借上げ住宅に移る前の最初の3ヶ月間に比べると、それ以降は、仕事をしていた時期は仕事に追われたりであっという間でした。

こうして2013年6月7日(本日)に至ります。

ただ、これから先も富岡町がどうなっていくのかはわかりません。

自分たちは地に足のつかない宙ぶらりんの状態に置かれていると思います。
先がわからないので、ただ置かれた状況にうまく順応して生活していくしかないのです。

これから先、いったいどうなっていくのだろうか・・・

 

 

借上げ住宅へ

数日後、貨屋を確認するために不動産屋さんと近くの駅で落ち合うことになりました。

また片道5時間の道のりです。
いつもの通りボク1人の運転です。まぁ、その時はボク1人で来たので当然ですが。

貸家に案内してもらい中に入りました。
とても快適に過ごせそうです。

3Kなのですが、割と新しい とてもきれいな家でした。
和室は母が使い、10畳くらいある洋室はボクが使うことに独断と偏見で決定しました。
小さい倉庫もありました。

そして庭も。
庭には普通車と軽自動車の2台停められるほどの広さがありました。
母は花を植えたいとしきりに言っていましたので庭があることは母にとっても良かったと思います。
現在庭は植物園の様相を呈しています・・・

とっても幸運としか言えません。
大家さんには感謝しないといけません。

通常の仮設住宅は2Kで各部屋もすごく小さいです。
中も実際に見た事はありますが、2人で生活しても大変だと思います。
それが家族数人で入っているケースもあるということですので、そういう方のご苦労は計り知れません。
プライバシーなんて全くないと思います。
きっとそういう方は追われた自宅に1刻でも早く戻りたいと思っているに違いありません。
特にお年寄りはそういう気持ちが強いのだと思います。
最後はやはり自分の家で・・・そう思っているのではないでしょうか。

それはさておき、数日後、契約しに仙台の不動産屋さんに行くことになりました。

またまた1人で片道5時間の運転を楽しませてもらいました。

仙台はやはり道が混みます。
慣れないところで少しばかり大変でした。

その日は無事契約して5時間かけて鬼怒川温泉へ帰りました。
着いたのは夜中でした。

後日引っ越し可能な日を連絡するということだったと思います。

そして数日後、不動産屋さんから連絡が来ました。

入居可能な日になり、いよいよ鬼怒川温泉から脱出です。
荷物をまとめ、早々とホテルを脱出しました。
荷物はだいぶ増えていたと思います。
軽自動車には載り切れなかったので、一部は宅急便で送ることにしました。

今回も1人で5時間の運転をこなし名取市へ向かいました。
でも今回は片道だけでしたし、とてもいい家に入居できるので晴れやかな気持ちでした。

つづく

 

 

鬼怒川温泉脱出計画

このままでは体を壊してしまう。

そう感じて何とか鬼怒川温泉から抜け出すことを考えました。
食べ物が悪いせいもあり母も便秘がなかなか治らないということでした。

そして以前に勤めていた南相馬市の会社から連絡が来たこともアパートを借りなくてはならないという決意を後押ししました。
「震災から3ヶ月は待つけど、それまで戻れない者は退職してもらいます」ということでした。
ガケから突き放される思いもしましたが、3ヶ月は会社の方で社会保険料を払ってくれるということでした。

なんとかアパートを見つけないと。
できたらねこもいるので古くてもいいから1軒屋に住みたいと思いました。

残された時間はあまりないように感じました。

それにどういう経緯か忘れてしまいましたが、町の方でアパートを借上げて家賃を払ってくれる「借上げ住宅」の制度があることも知りました。

でも、情報量は極端に不足していました。
家を借りるにしてもどうやって調べたらいいでしょうか?

こっそり自宅に帰った時に自分の古いノートパソコンを持ち帰ってきてありました。
それでauの通信カードを契約することにしました。
USBタイプでノートパソコンと通信カードがあれば、携帯電話のようにどこでもネットにつながります。

そうして設定に少し手こずりましたがなんとかネットにつながりました。

ただ今度は、古いノートパソコンだったので処理速度が間に合いません。
そこでさらに、決して安い買い物ではありませんでしたが、通販で最新のノートパソコンを購入することにしました。

そうしてなんとかネットで情報を得る環境を整えることができました。

それからさんざん調べましたが、なかなかいい物件はありません。
いい物件があってもうかうかしているとすぐに借り手が決まってしまいます。

それもそのはず会社がある浜通りは津波の被害にあり宮城県から福島県まで全域で住宅が不足していました。
でも、会社に通える範囲でないといけませんでした。そうなるとやはり太平洋側に限られてしまいます。

また、ペット可の物件であることも大前提でした。
ねこはもはや大事な家族でした。
一緒に避難生活を乗り切ってきたのです。

5月終わりか6月にはいったばかりのある日、南相馬市の方で古いアパートの1室が掲載されていました。
ペット可でした。

それで意を決して栃木県から福島県浜通りまでその物件を見に行くことにしました。

さすがに遠い。片道5時間はかかりました。いつものことながらボク1人の運転でした。

あー、やっと着いた。

不動産屋さんの敷居をまたぎました。

しかし、何とすでに決まってしまった後でした。

折角来たのに・・・

でもせっかく来たからあきらめられません。
何かあった時のためにと、ノートパソコンと通信カードを持ってきていました。

車の中で浜通りの不動産屋さんを調べ、片っ端から電話しました。

でもなかなかダメでした。

あきらめかけていたその時、仙台の不動産屋さんではありますが、ちょうど空いた物件があるという事を聞きました。
なんでも今まで借りていた人が出たばっかりでネットにもまだ掲載されていない物件とのことでした。
そしてしかも1軒屋でした。
大家さんにペットを飼ってもいいか聞いてくれるということでした。

それでお願いして、その日は帰ることにしました。

帰り道の高速道路で早速連絡がありました。

結果はペットも許可してくれるということでした。
ただ、2年以上は借りてほしいということでした。

名取市から南相馬市まで決して近くはありません。
でも、選択肢は他はありませんでした。

それで後日契約することにしました。

鬼怒川温泉のホテルに着いたのは11時過ぎでした。

つづく

 

 

鬼怒川温泉での日々(2)

鬼怒川温泉は有名な観光スポットです。

ただやはり観光でいたわけではありませんので、どこかに出歩いた記憶はあまりありません。
まったくどこも観光しなかったかというとそうでもありませんが、気分的に乗り気しませんでした。
やはり観光は通常の平穏な日々があってこそなのだと思いました。
観光らしい観光はほとんどしませんでした。

温泉は毎日入っていたから肌はきれいになったでしょうか?
いや、食べ物が駄目だったのでやはりきれいにはならなかったかもしれません。
油ものばかりでしたから・・・
それに、まぁ、ボクはどうせ中年オヤジですから・・・

ホテルにいい思い出がないせいもあり、鬼怒川温泉には、また行ってみたいとも思いません。

ただ一度、野岩鉄道が企画するトレッキングには行きました。
ボクは山歩きは好きです。
久しぶりのトレッキングでした。

龍王峡を歩きました。渓谷でしたので、とても景色のいいところでした。自然はいいものですね。
ただ、福島県浜通りは人も入れない状況なのに、それと比べたらここはなんてのどかなんだろう、そう感じました。
別な世界のような錯覚すら覚えました。

でも、あそこはまた行ってみたいです。

それから、ホテルから歩いて数分のところにロープウェイがありました。
母とそのロープウェイには乗りました。

頂上には神社と猿山があり、さるを見てきました。
母はエサを買って、さるにあげていました。動物好きなのでとても楽しそうでした。
いい気分転換になりました。
ただ狭いところに閉じ込められて少しかわいそうな気もしました。

母は帰りロープウェイ乗り場のところのお土産屋でキーホルダーを買いました。
でも、よく見るとそのキーホルダーのNIKKOのスペルが間違っていました。
確か今でも使っていたと思います。

観光という観光はその程度です。

他のみんなはどう過ごしていたのだろうか?
他の被災者との交流はあまりなく、よくわかりませんでした。

つづく

 

 

お世話になった昔の上司の元へ

まだ鬼怒川温泉にいる時だったので震災のあった年の5月あたりだと思います。

東京にいる時に働いていた小さな会社の社長(通称:所長)にあいさつに行きました。

鬼怒川温泉からはスペーシア1本で行けます。

東京に着くと地震があったことなどウソのようでした。
以前と何も変わっていませんでした。

小さな会社でしたが、かなり高度なことをやっていたと思います。
試験機の設計だとか、ワイヤレスのセンサーの開発だとか。
そこでボクは機械設計を教えてもらいました。
所長には1度も怒鳴られるようなことはありませんでした。
とても穏やかな方でご飯も何度もごちそうになったりしました。

しま次郎も、その所長にもらい受けたものでした。

所長のうちは動物病院も経営しています。
奥さんが獣医なんです。

久しぶりにお会いしました。
1年ぶりくらいだったでしょうか?

「東京も大変だったんだよ」なんて雑談をしていたら、やっぱり目からポロリと落ちてしまいました。
「泣くな泣くな」と励ましてもらいました。

なんだか昔の上司に会って少し気が緩んだのと、しま次郎のことが申し訳ないと思ってしまったのです。

「ねこなんてしぶといから大丈夫だよ」なんて話してくれました。

なんでも東京もガソリンも不足し、電車も止まったそうでした。
結構大変だったそうでした。
動物病院の備品もずいぶん床に落ちたと話していました。

所長は心臓病を患っています。

でもホント明るい人なんです。
「心電図を撮るとアブノーマルって出るんだよねー」なんて。

会社が閉鎖されたのも体が限界とのことでした。
ホントはボクももっと一緒に働きたかったです。
仕方ありません、やはり仕事を続けるには限界だったのだと思います。
ボクが勤め始めた時は、とある大学の講師もしていましたが、それも辞めてしまったので。

そんな人なのにとても穏やかな人です。

今年もそろそろ顔を出しに行ってみようと思います。

ずっと元気でいてほしいです。

 

 

警戒区域がなくなる!?

少し前にこのような報道がありました。

「原発事故に伴う福島県双葉町の警戒区域が28日午前0時に解除されました。これによって原発事故による福島県内の警戒区域はすべてなくなりました」。

とうとう「警戒区域」はなくなりました。ただし双葉町に関してはほとんどが「帰還困難区域」として残ります。富岡町も夜ノ森地区はほとんどが「帰還困難区域」です。

何が変わるのでしょうか?
詳しいことはよくわかりませんが、以下は1人の被災者(ボク)の素人目線です。

まず変わったのは6号線のバリケードで通行証の確認作業にあたるのが警察ではなく警備員になりました。

警備員も警察のような恰好をしていますので見分けは付かないかもしれませんが、制服をよく見ると所属する会社名が記載されています。
対応が横暴ではありませんし、睨まれることもなくなりました。
通行証の確認作業は警察が行っていた方法が踏襲されています。

ただバリケード付近には相変わらずたくさんの警察が待機しています。
防犯上それはいいことだとは思います。

あとは6号線の道中、脇道に入れないようにバリケードが増えていました。

うちの場合、自宅に帰る際の精神的な負担(警察とのやりとり)が減ってすこし楽になりました。

 

 

警戒区域解除!

つい先月のことです。

朗報を耳にしました。

富岡町の警戒区域が再編成されるということでした。
ボクが住んでいたあたりは警戒区域が解除されて、「避難指示解除準備区域」に指定されることになりました。

つまり、うちの場合まず期待できるのは、東北道を経由して、いわき方面を迂回しなければないないとしても自由に家に出入りできるということです。

そしてさらに朗報がありました。
母が役場に問い合わせたところ、町の方で通行証を発行してくれるということでした。
それがあればいわきを迂回しなくても6号線を通って南相馬市経由で北から自宅に帰れます。

それから1ヶ月くらいが経ちました。
失業中という事もあって週に1度のペースで片付けに帰っています。
しま次郎は依然 行方不明ですが、家の前に念のため ねこのエサも置いてきています。

ただ当初は6号線のバリケードのところに待機している警察も通行証について知らず、毎回一悶着ありました。
対応は警察特有の冷たいもので、何も悪いことをしていないのに睨むような目つきでした。
結局、通行証の確認作業をおこなっているのは神奈川県警だとか静岡県警だとか別の県の警察なので福島県民の苦労なんてわからないという訳です。
「そんなに疑うなら町に聞いてください!あなた達ここで仕事をしているのに何で通行証のことも知らないのですか!」とキレたこともありました。

通行証には通行できる車両のナンバーや通過できる人の氏名が記載されています。
うっかりボクの車で行ったときに母の通行証を持って行ってしまい、結局通行できず無駄に帰ってきたこともありました。
通行できるようになったとはいえ通過するたびに免許証を財布から取りださないといけませんし当然の処置とはいえ面倒です。
それに、毎回のようにバリケードでは嫌な顔はされるし融通は利かないし、もろ手を挙げて喜べるような状況でもありません。

ただ、線量計を持って警戒区域を通過すると車の中であるにもかかわらず、大熊町や双葉町、そして夜ノ森でさえ警報音が鳴りっぱなしという場所もあり、頻繁に通行するのもあまりよくないとは思いました。
2年経ってもかなり線量の高い区域が存在するのは事実です。

それでもそういうところで仕事をしている人もいるのですよね。
バリケードの所の警察はもとより、警備員や道路工事業者。彼らは大丈夫なのだろうか?
自分たちが受けている線量など把握しているのだろうか?線量計を渡されているのだろうか?
数年後何か問題が出てくるかもしれません。

少しずつ富岡町も復旧に向けて動き出しました。

 

 

クロと再会!

富岡町が警戒区域になる前、ボクたちも何度か裏道を通ってこっそり自宅に帰ったことがありました。
ホントはもっと早く行きたかったのですが母が臆病でなかなかいけませんでした。
ねこ達にとっては少し遅すぎました。

その時クロは家の後ろで走っているのを見かけました。
はじめて行ったときはフクもコウも見かけましたがなぜか警戒して近づいてきませんでした。

しま次郎は影も形もありませんでした。
避難してから1度も見ていません。なんとか生きていてほしいです。
他の人の元でも幸せであればそれはそれでいいです。

でも、消息不明です。

結果的に自力では1匹も連れて帰ることができませんでした。

母もなんとか家に残してきたねこを助けたいと考え、方々に連絡し、警戒区域でねこの捕獲をおこなっているNPOの方に救出を依頼するようになりました。
捕獲器を使って捕まえてくれるそうでした。

南相馬市を拠点に活動しているにゃんこハウスさんと連絡がつき救出をお願いしました。

数回自宅に行ってもらってまず捕まったのがクロでした。

ちょうど震災のあった年の夏でした。
あの年の夏は、かなり暑い日々が続いていました。

自宅の裏に仕掛けておいた捕獲器にねこが入ったと聞いてにゃんこハウスさんに見に行きました。

捕獲器の中にいたのは間違いなくうちのクロでした。
小さい捕獲器の中でびくびくしていました。

でも、前と変わらない様子で元気でした。

それですぐ借上げ住宅に連れて帰ることにしました。

車の中に入れてみると熱射病にかかっていたのかハーハーと、とても苦しそうでした。
それでコンビニで袋入りの氷を買ってきてタオルでくるみ、籠の中の足元と頭の方に置いてあげました。
やはり暑かったのか氷の上にうまくお腹を乗せていた光景が印象的でした。

家までなんとか我慢してほしいと祈るような気持ちでした。

母が言うには、前と比べると人間に対する警戒心が強くなったとか。
また、少し弱ってしまったということでした。

でも、今でも割と元気です。

にゃんこハウスさんには、捕獲後数日で死んでしまいましたがコウも捕獲してもらいました。
とてもお世話になりました。

NPO団体に関してはいろいろな団体が活動していて問題も生じているようです。
里親の連絡先も控えておかないで勝手に里子に出してしまったり、捕獲したペットの飼育の仕方が雑だったりと。
ただ、にゃんこハウスさんはとても良心的に活動してくれていると思います。

クロ。とても愛嬌があり人懐っこいです。
特に口まわり =^ω^= に愛嬌を感じます。

 

 

 

富岡町のいま_20130603

今日は自宅の片づけに行ってきました。

相変わらずの片道3時間半の道のりです。
それでも最近は通行証があれば国道6号線を通ることができます。
東北道を経由しなくて済むので、ずいぶん楽になりました。

母が家の中を片付けている間、自分は少し街中の写真を撮ってきました。

毛萱にて

上の写真右はじの津波の被害に遭った車

海遊館

富岡駅

駅前

富岡駅近くの道路の上に放置されたままの家 (奥に見えるのが富岡駅)

富岡町内

陥没している旧道

普段は穏やかな太平洋

原発さえなければホントのどかです

うちのたんぼの1つ。これから先、米作れるのかなぁ

震災から2年以上が経ちました。
まだ帰宅困難区域さえも残っています。

復旧復興などとはほど遠い状態です。

このような状態ですからまだ全然人など住めません。

いつもながら運転はボク1人。
今日は疲れました。

明日は就職のための会社見学です。
うまくいくといいなぁ。

 

 

 

鬼怒川温泉での日々(1)

鬼怒川温泉の日々は食事の時間が決まっていたこともあって、割と規則正しかったと思います。

8時くらいに起きて(8時起きが規則正しいかどうかは抜きとして)、あたまぼさぼさで朝ご飯を食べました。

それから、壊れているのか、それともわざとそうしていたのかわかりませんが、お湯がほとんど出ない部屋のシャワーで頭だけ洗って1日が始まりました。

近くには図書館がありました。

それで午前も午後も、ほとんどは図書館に行きました。

ボクは放送大学の生徒でもあります。これまで半分程度単位を取得しています。
余談ではありますが、富岡町の放送大学の学生はボク1人しかいません。
それで依然大変な状況ではありますが、図書館でようやく少し勉強することができました。

それに図書館ではDVDも見ることができました。
たまには気分転換にDVDを見ました。
はじめてハリーポッターを見ました。なかなか面白かったです。あとはNHKのシルクロードの特集など。

母はほとんどテレビを見て過ごしていたようでした。

当初、洗濯は当然自腹で駅前のコインランドリーを使っていました。
温泉街のせいか、お湯で洗うコインランドリーでしたので洗いあがりさっぱりで気持ちよかったです。

でもしばらく経つと、近くにある東電関係の施設に被災者がつかえる無料の洗濯機が数台置かれるようになりました。

それで少しは助かりました。
でもやはり他の被災者のマナーの悪さも気になりました。

ボクは洗濯している時はずっと終わるまで待っていました。
洗濯が終わればすぐに次の人が使えるように洗濯物は取り出しました。

でもみんながみんなそうではありませんでした。
洗濯機ないし乾燥機に衣類をずっと入れっぱなしという人も多かったです。
それは少し問題にもなりました。

そんなで混んでいる時は結局自腹でコインランドリーを使いました。

世の中いろいろな人がいますから。

夜は少しだけテレビを見て、10時くらいには寝てしまいました。

つづく