松川浦の思い出

ボクが小学校の時だったある夏休み。

いつものように富岡町に遊びに来ていました。

祖母と母と兄とボクと4人で相馬市の松川浦に潮干狩りをしに行くことになりました。

ボクは小学生。
家族の中ではまだだれも車を持っていない頃の話です。

富岡駅から電車に乗って恐らく相馬駅で降りたのではないかと思います。
相馬駅からは割と近いので恐らく歩いて松川浦に向かいました。

足を泥だらけにして貝を採ってきました。

小さなカニもたくさんいました。
そうですね。足の先端から先端まで10cmほどだったでしょうか?
飼うのにたくさんバケツに入れて持ち帰ることにしました。

何分昔の事ですので潮干狩り中の細かい事は覚えていません。

そして、帰りの電車の中で事件は起きました。

ボク達が乗った車両の向こう端の方で女子高生がキャーキャー騒いでいます。

「なんだろうねぇ」なんてみんなで話しました。
ボクが見に行くことにしました。

見に行ってみるとカニがたくさん歩いていました。

ん?

自分の席に戻ってバケツを見てみるとほとんどが脱走していました。

ボクのカニのようでした。

でも知らんぷりして家に帰りました。

その後のカニの運命はわかりません・・・

残りのカニはなんでも「カルシウムを取る」とかで母にから揚げにされて殻ごと食されてしまったようでした。

結局カニは全滅してしました・・・

 

 

自動車整備工場

20代半ばのころでした。

車好きが高じて、山の方にある自動車整備工場で働くことになりました。
従業員数は6人程度の小さな工場でした。整備員がボクを入れて4人、社長、事務員。
2年ほど働いていたでしょうか?

整備員の中に50歳くらいの方がいてその方の下で教えてもらいながら働くことになりました。
その方は整備士の免許はないものの整備歴30年以上のベテランでした。
農業も兼業していました。3丁の田んぼを作っていると言っていました。
猟師としての免許も持っていたので猟もしていました。

山の中の整備工場、自然環境は最高でした。

夏は山の方から入道雲がもくもくとやってきて、急に雷雨になったり。
秋は秋で紅葉がすばらしかったです。
でも、冬は雪が多くて通勤が大変でした。降るときで30センチは積もりました。朝と晩は、ほぼ毎日のように路面は凍りつきました。

山の中ですので山に囲まれていて、あたりは静かでなんとも心落ち着く場所でした。

納車のときなど車を運転しているとそんな自然環境にとても癒されました。

工場ですから空調設備などありません。
夏はとても暑く、冬は寒いです。盆地ということもあり温度差は半端ありませんでした。

水道管には凍結防止用のヒーターが取り付けてありました。

上司からはとてもかわいがってもらいました。
今でもたまに顔を出します。

2つある工場のうち、古いけど大きい方の工場でその方と主にトラックなどの整備をしていました。

機械いじりは割とすきです。
上司の教え方もとても親切でわかりやすかったので1年も経つとだいぶ仕事も覚えていきました。

ボクは車検や簡単な整備などを行っていました。
ブレーキの整備もやっていました。
ただ、エンジン関係とミッション関係は自分の技術では無理でした。

自動車整備って思っていた以上に大変でした。
相手が車というだけで内容は鉄工場にも通じるものがありました。

バールでドライブシャフトを外したりと。
毎日、毎日がとても楽しかったです。

週末はたまに工場を借りて自分の車の改造などしました。

仕事には波があり、たいして忙しくない時もありました。

そういう時は上司は仕事時間中ではありましたが、自分の家に連れて行ってくれてお茶を出してくれました。
ちょっとの時間ですが猟にも連れて行ってもらいました。

お昼は自分の家で作った漬物などを分けてくれました。
自分が狩ったイノシシ汁をごちそうしてもくれました。

イノシシは臭いといいますが、あのとき食べさせてもらったイノシシは全く臭みなどありませんでした。

でも、そんな自動車整備の仕事も不満がなかったわけではなかったのです。

通勤が大変でしたし、給料もとても安かったです。

通勤は峠をこえないといけなかったので特に冬場はかなりの危険が伴いました。
片道40分はかかりました。
都会では1時間の通勤も普通ですが、自分で車を運転しての通勤は1時間は結構遠く感じます。

そのころもまだ自分は朝少しだけでしたが新聞配達のバイトもしていたので、それでようやく生活していました。
丁度、母親も父親のことがあり東京から引っ越してきていましたので生活費は結構家にいれていました。

それに大型車の運転がどうも無理でした。
構内で動かすので免許はいりませんが、どうも怖くて無理でした。
下回りの洗車の際はスロープに車を上げます、特にそれが車を落としてしまわないだろうかと恐怖でした。
誰かに手伝ってもらわないとダメでした。
他の整備工場ではかつて実際にスロープから大型車を落としたことがあったと聞きました。

やっぱり自分には向いてないのかな?と感じていました。
プロだったらすべてできないといけません。
それに歳をとると手が動かなくなっていくと聞き、生涯の仕事としては無理なのだろうかという考えもありました。

しばらくそんな疑問も抱えながらも楽しく働いていました。

上司の奥さんはしばらく前に乳がんの手術をしたそうです。
何度かお会いしましたが、見た感じは元気そうでした。

ところが、ある日亡くなったと聞きました。
びっくりもしました。50歳そこそこではなかったのではないでしょうか?

葬式にも参列しましたが、とても気の毒でした。

退職するきっかけは社長とのケンカでした。

お客さんがいらないという事で工場にランサーGSRを置いていきました。
10万キロ以上乗ってはいましたが、まだ乗れます。
それでボクの通勤にと数十万で工場から譲ってもらいました。

悪いところは直してくれるという事でしたが、故障ばかり。

ある日、クラッチが全く効かなくなりました。
ギヤチェンジができないのです。

当時のボクの技術力では直せませんでした。

それで社長に直してほしいと言ったところ、ダメだということでした。

決して安い買い物でもなかったので一般の客であれば直していたのではないでしょうか?
「約束が違うのではないですか?」少し高い声で抗議しました。

だもダメだということでした。
ランサーなどのFFベースの4WDターボは整備の一番難しい部類で、ミッションは工場でもできたら修理したくないというのが本音ではあったようでした。

「では、せめてディーラーに運んでください!」と言ったところ、「明日から来るな!」と怒鳴られました。
「わかりました、明日から来ません!」

それっきりでした。

後で知ったのですが、整備工場という手前、自分たちで整備しないでディーラーにもっていくのが嫌だったようです。
自分たちでできないから持ってきたのだろうと笑いものになるという事でした。

そのあと山道をずっと1速か2速かに固定されたままで走っていきました。
ボクもはっきりいって命がけの帰途になりました。

後日、上司にあいさつに行きました。
社長も随分反省しているということでしたが、やはり辞めてしまいました。

つい先日その上司のところに行ってきました。
仕事中に骨折してしまい、それが原因で今は仕事を退職したそうです。
歳も60歳を過ぎたからということでした。

今は孫もできて農作業などやっているそうです。

昨年の記録

片付けしていたら昨年の手帳が出てきたので念のため記録を付記しておきます。

2011年 10月30日  一時帰宅
2012年 3月10日  一時帰宅
6月24日  一時帰宅
8月31日  一時帰宅
9月2日   住民説明会(郡山、ビックバレット福島)
9月17日  一時帰宅
11月24日  VIVIO(MT)廃車
12月9日  一時帰宅

 

 

軽トラックの掃除

数日前(6月17日)、富岡町の自宅に片付けに行ってきました。
避難指示解除準備区域になり何度目かの自宅です。

少しずつですが、片づけが進んでいます。

でもなかなか手も付けられない部分もあり、ボクの部屋はどこかでねずみが死んでいるのか異臭がします。
庭には片付けで発生したゴミなど山積みになっています。

電気、水道、ガスの供給はまだありません。
実際のところ電気は使えるようになったのですが、電気屋さんに点検してもらわないと使えません。
ねずみが配線をかじって断線している可能性があるからです。

ボクも電気工事士の資格はありますがこんな時は全然役に立ちません。

でも、今回のボクの目的は実は片付けではありません。
話は長くなります。

母のVIVIOが廃車になり、ミラジーノの中古を購入しました。
全体的には、とてもいい車です。
なによりクラッシックな外観がとても気に入っています。
少しだけミニクーパーに似ています。

ただ乗り味はVIVIOの方がしっかりしていました。
スバル独特の高いボディ剛性と4輪独立サスペンションが効いていました。
ミラジーノは少し乗り心地に関しては安っぽい感じはします。
ただ3気筒エンジンということもありVIVIOに搭載されるEN07のNAと比べるとパワーがあります。

また、ミラジーノを買ってみて気が付いたのは荷物がわりと載りません。
それは貨物タイプのVIVIOと比較したらかわいそうですが、リヤシートを倒してもトランクルームがフラットになりません。
裏返せばリヤシートの厚みがありシート自体のクッションがしっかりしている事ではあります。

家の片付けなどにはかなり不便です。
荷物を運ぶことも多いですし。

それで軽トラックを20万円ほどで購入しました。

古いスバルのサンバーです。
ただ、ECVTでスーパーチャージャー付です。
かつて1年間しか製造されなかった大変珍しい車です。
ボクのはRR(リヤエンジン、リヤ駆動)ですが4WDだったら結構価値があります。

最近自宅に帰るときはこの軽トラックで帰っています。
その軽トラの掃除をしたかったのでした。

失業中の身だから時間はたっぷりあります。
ホントは借上げ住宅で掃除してもいいのですが・・・住宅地です。
体裁悪いですね・・・
平日は出かけるか家の中に引きこもっています。

この間面接に行ってきたところはダメでした。
でもあきらめません。
また近々面接があります。

シートなどはずせるものはすべてはずしました。
そして、家の前の水路から水を汲んできて車内の拭き掃除をしました。
以前は鈑金屋さん(建築の方の鈑金屋さん。外壁工事などやっているようです)が使っていたという事で、すごく汚れていましたが帰りには見違えるようでした。

そしてシート下などから合計で300円ほどを発見しました!
帰りにお菓子に変身しました(笑)

現在富岡町では午後3時以降は全域において退出しないといけないことになっています。
借上げ住宅を8時に出ても自宅に着くのはお昼ぐらいになってしまいます。
だから毎回、作業できる時間はあまりありません。

ホントはコンパウンドで塗装なども磨きたかったのですが、次回ですね。

母は家の掃除をしていました。
今回は台所の掃除をしたみたいです。
帰り際に見てみたら結構きれいになっていました。

とても疲れました。

でも汚れていたモノがきれいになるというのは、とても気持ちいいものですね。
掃除の楽しみの1つですね。

 

 

ふる里

今日も富岡町の自宅の片付けに行ってきました。

国道6号線を南下し片道約3時間半の道のりです。
相変わらず遠いです。しかも、いつも通り運転はボク1人です。

国道6号線の通行証を確認するバリケードを通過し富岡町に入ったあたりでふと昔の事が思い出されました。

あー、小さい時は家族のだれも車を持っていなかったから町までは半日かかったなぁ。
でも、帰りにあそこで ばあさんにたい焼きを買ってもらったなぁ。
みんなで歩いたのも楽しかったなぁ。

ばあさんにはあまり良くしてあげられなかったなー。

そうそう、家の前の水路では昔は川エビなど採れったけ。
ホタルもいたなぁ。

昔の記憶がまざまざと甦ってきました。

ボクは学生時代は東京にいました。
でも、春休みも、夏休みも、冬休みも、毎年祖母のいる富岡町で過ごしました。
小学生のころは部落にも友達がいて、休みのたびに一緒に遊びました。

「探検」と称して川岸を散策したりしました。
一緒に海釣りをしたりもしました。
ラジコンで遊んだりもしました。
裏の堤でコイを捕まえたりしました。
家にも遊びに行って、時には喧嘩もして。

中学生になると受験勉強で忙しくなったこともあったのか自然に疎遠になってしまいました。
でも、楽しい思い出です。

祖母はちょっと頑固でした。
だから喧嘩も結構しました。
最後の方は痴ほう症になってしまったので大変でした。
でも、かわいがってもらいました。
高校を卒業して富岡町に引っ越すときには台所も改築して、ボクの部屋も増築してくれました。
もう亡くなって10年くらいになります。

どんなに古くても誰も、大切な写真のつまったアルバムを乱暴に扱ったりしないと思います。
むしろ大事にして、時折眺めては昔の思い出に思いを馳せると思います。

だからこそ今回津波で流された写真も大事に回収され、ボランティアによって1枚1枚洗浄と復元がなされたわけです。
あるものは元の持ち主に返されていきました。

思い出とはかけがえのない大切なものです。
明日を生きるための原動力にもなります。

原発被災者にとってもふる里とはそういうアルバムのようなものなのです。
町そのものがアルバムなのです。
町を静かに歩けば昔の記憶が自然と甦ってきます。

家だってそうです。

今日も自宅に帰った時、薪ストーブを見て母がしんみりと話していました。
「冬になるとここは暖かいからみんな(ねこ)で丸くなって寝ていたのに、みんな死んじゃった」って。
ボクと祖母と母と3人、それとねこ達と過ごした思い出の場所なのです。

長いこと警戒区域にとり残され、家の中はネズミの糞が散乱し、ネズミの小便のにおいとカビのにおいが充満していたとしても。
蜘蛛の巣だらけになっていたとしても、埃と汚れにまみれていたとしても思い出の残る大事な場所なのです。

ボクたちは、そのような大切なアルバムのような大事な思い出の残る町も家も奪われてしまいました。

ボクの場合はいつかまた戻れるという希望がありますが、双葉町、大熊町のほとんどの方は戻る目途は全くついていません。

原発により大事なふる里を奪われてしまいました。

 

 

VIVIO廃車。今までありがとうね。

今年に入ってから母のVIVIOの調子が悪くなりました。

ちょうど仕事をしているときでした。

ボクの携帯に母から電話がかかってきました。
「途中でエンジンが止まってしまって、もう動かなくなっちゃった」
とりあえず安全な場所にうまく停めたということを確認してからいつもお世話になっているミツビシのお店に連絡しました。
「母の車が停まってしまったようなので対応をお願いします」

仕事の帰りにお店に寄って話を聞きました。
なんでもキャブレターが悪くなっているということでした。

無理もありません。
軽自動車、しかも3AT(3速オートマ)なのに頻繁に高速道路も乗りましたし、道の悪いところも無理して走りました。
そもそも3ATのギヤ比は低く高速道路を走るようには作られていません。

キャブレターは修理にお金がかかると予想されます。
それに、もう12万キロ程度乗っていました。

ただ今まで一緒に避難してきた車でした。
鬼怒川温泉に移るまで、ずっとアメショーさんの住まいにもなっていました。
この単なる軽自動車の貨物にどれだけ助けられてきたか。
本来、貨物は一番グレードの低い安い車です。
でも、貨物だから荷物もたくさん載せることができたのです。
それに丈夫でした。

母はいつも「ありがとうね」と車をさすっていました。

できたらエンジンもオーバーホールしてずっと乗ってあげたいとさえ思いました。
でも、修理してもあとどれくらい乗れるかもわかりません。

どうするか悩みました。
でも、意を決して廃車にすることにしました。

形のあるものはいつか壊れます。
人との出会いですらいつか別れが来るものです。

先月、廃車業者に引き取られていきました。
ボクが見送らせていただきました。

今まで、ありがとうね。

仕事のこと

名取市の借上げ住宅に入居してまもなく、再び南相馬市の会社に通うことにしました。
半年程度ではありましたが以前も働いていて勝手がわかっていたのと、なかなか機械設計の仕事がないのでそう決断しました。

それにともなって通勤の車が必要になりました。
VIVIOは母の車ですのでボクは使えません。
それにまだ車の持ち出しも実施されていませんでした。

それでネットで探しました。
とても乗りやすいので、またVIVIOを探しました。

ちょうど20万円ほどでマニュアルのVIVIOの貨物タイプのものが売りに出されていました。
なんでもお年寄りが乗っていたということで程度も悪くないということでした。
まだ、3万キロ程度しか乗っていませんでした。

実際に1度見てから購入し、後日取りに行きました。

帰り道、乗ってみての感想ですが、お年寄りが乗っていたというためか全くエンジンが吹けません。
母のVIVIOと比べても高回転の上りが全く違いました。
同じ車でもこう変わるものかと少し驚きました。

それでキャブレター車でしたので、エアクリーナーボックスを取っ払って、ファンネルを付けて走ることにしました。
初めはそれでずいぶん乗りやすくなりました。
しかし、それが後で仇になったようでした。

名取市から南相馬市までの通勤距離はかなりのものでした。片道2時間前後かかりました。
朝5時半に起きて6時半には家を出ました。
9時くらいまでは残業もありましたので家に着くのは11時少し前くらいだったでしょうか?
すぐにご飯を食べて風呂に入って寝ました。

前々から聞かされてはいましたが、会社の人がだいぶ退職してしまったので今度は検査部で働いてほしいとのことでした。
なんでも、以前は40人程度いた従業員が25人程度に減ったということでした。
機械設計ではありませんが、検査の仕事も興味はありましたので了解済みでした。

検査ではマイクロメーターやノギス、そして三次元測定機を使って検査をしました。
三次元測定機は初めてでしたが、旧式のもので操作が単純なこともあり3週間程度である程度は習得しました。

そんなこんなでしばらく検査で働いていました。
同僚も若い方でしたが、穏やかでとてもいい人でしたので楽しく働いていました。
通勤は大変でしたが結構毎日楽しかったです。

働き始めてから、以前会社にいた人のことを聞いてみるとそれなりに苦労された方が多かったみたいでした。
一番気の毒だったのは、お父さん以外は家族全員津波で流されてしまった人でしょうか。
なんでも家は漁業をやっていたようでお父さんは漁師とのことでした。
その方は家の仕事を手伝うために辞めたそうでした。

各地に避難した人も結構いました。
新潟に避難した人もいました。
自分が鬼怒川温泉で受けた仕打ちを話したところ、びっくりしていました。
新潟は自分たちも震災を経験しているせいかとてもよくしてくれたと話していました。

ある日の朝通勤途中で、VIVIO(MT)のオイル警告灯が付きました。
初めてのことでしたのでびっくりしましたが、オイルの量を確認するとゲージの下にすら届いていませんでした。
回しすぎでオイルが減ってしまっていたのでしょうか?
ちゃんと5000キロ程度毎のオイル交換は実施していました。
燃調も悪かったのか、エンジンを痛めてしまったのか、その日を境に信号などで停車するとエンジンが止ってしまうようになりました。
でもだましだまし乗っていました。

さらにエアコンの調子も悪くなりました。
まだ暑い時期でしたのでエアコンがないと辛いものがありました。
修理に7万円もかかりました。
その後もオイルが漏れたりで、初めは安い車がどんどん高い車になっていきました。

震災の年も過ぎ、1月のある日のことでした。
現場の人も足りなくて大変だから今度はフライスに行ってと言われました。
自分は工作機械の経験はありません。
訓練校で勉強はしていたのでなんとか操作できる程度です。

長距離の通勤をこなし、なおかつ現場で労働をこなすのはハッキリ言って無理でした。
それで、それをきっかけにその南相馬市の会社を退職しました。

VIVIO(MT)も調子が悪かったので廃車してしました。
結果的には1年も満たないで廃車することとなってしまいました。
もっと程度のいいものを買っておけばよかったです。
ただ、その時点で走行距離は6万キロ以上になっていました。
1年もたたないのに3万キロ以上乗ったことになりました。

それから約半年間仕事がなかなか見つからずにいました。

9月になり鉄道関連の会社の「設計開発準備室」で働くことになりました。
鉄道関係の仕事はやりがいがあったので最初は良かったです。
多少のことは我慢していました。
しかし、しだいに設計のできない「自称上司」のことが気になりだし結果的には辞めてしまいました。

2013年6月7日現在、失業中です。

ガレキの仮置き場

去る6月4日のことでした。

なんでもうちのたんぼの1つをガレキ置き場に使いたいということで県や町の人がうちに訪ねて来るということでした。

当日になってみると4人も来ました。

いろいろと話を聞きました。

早い話が、これから復旧に向けてガレキ置き場が必要になるので土地を貸してほしいということでした。

どんなガレキを置くのか、どのような方法をとるのか説明を受けました。
そして支払いに関しても。

結果的には3年の契約で貸すことにしました。
契約上は返してもらう際には原状復帰で、ということになりました。

これからの流れとしては、除染し、除染で生じたガレキをガレキ置き場に一時的に保管します。
そのあと中間貯蔵施設に入れてから、最終処分場へ引き渡されるそうです。

まだ中間貯蔵施設も最終処分場も決まっていないということでした。
また、富岡町に関しては最終処分場は建設されないということでした。

その分どこかの県が犠牲になるわけです。
もともと東電と国の施策によりこうしたことが生じましたが、富岡町の住民も働き口が確保されたり恩恵を受けていた人がいるのも事実です。

富岡町のごみがいずれは他の県の処分場に送られる。
富岡町にとってはいいのですが、送られる方の県の事を考えると複雑な思いでした。
これから決まるであろうその県は何も恩恵は受けてこなかったはずです。

いったいこれからどうなっていくのでしょうか?

いつも誰かが犠牲にならなければならない。
それはわかります。
今回は自分たちでしたが、きっとまた別な誰かが何かの機会に犠牲になっていくのだと思います・・・