アメショーさん逃走!?

4月も終わる頃だったと思います。
今市青少年スポーツセンターから鬼怒川温泉にあるホテルへ移動することになりました。

スポーツセンターの所長さんにお世話になったので最後のあいさつをしました。
やはりぽろりと涙がこぼれました。よくしていただきとても感謝しました。
自発的に少しばかりのお礼を置いて名残惜しいですが温泉に向かいました。

きっと温泉に行けばおいしいものも食べられるし、温泉にも入れていいだろうなぁ、なんて少しの期待もありました。

ホテルに着くととりあえず必要な荷物や貴重品を降ろし、車は少し離れた所に停めました。
ホテルの印象は割とこじんまりとしていてビジネスホテルを少し大きくしたものというものでした。

そこのホテルはペットと同室に泊まれることで知られています。

それは母にとってはとても幸いでした。
それでアメショーさんを抱きかかえて部屋に向かいました。
アメショーさんはとてもびっくりしたようで暴れまくっていました。
結構 臆病なねこです。

でも何とか部屋に連れ込みました。
確か3階の部屋だった気がします。
部屋からは温泉街が見下ろせました。
ただ、風評被害もあり人はまばらでした。平日だったせいもありました。

温泉街なのに少し寂しいなぁという印象でした。

部屋にも風呂場はありましたが、どうも壊れているようでした。
まぁ、別の階に温泉がありましたので、それは問題ありませんでした。
地下と最上階と2階にそれぞれ温泉があったような気がしました。

タタミは、よく見てみるとペットが汚してもいいように(?)イ草製ではなく、ビニール製でした。

部屋は特に問題もありませんでした。
テレビも、小さい冷蔵庫もあって快適に過ごせそうでした。

ボクは残りの荷物の片づけなどしていたのか少し部屋を離れていました。

少しすると母がアメショーさんが逃げたとホテルの人と大騒ぎしていました。

なんでも入口のドアの下にすこしスキマがあるのでそこから逃走したらしいということでした。
ホテル内をくまなく探しました。
ホテルの人によると以前もこんな事があったようで、ねこは上の階に行くことが多いということで、上の方の階を重点的に探しました。流しも下の扉を開けてみました。

でもまったくいません。

他の人の部屋には入っていないだろうということでした。
玄関は開いていました。外へ逃げてしまったのでしょうか?

外に出てもきっと戻ってくるよ、なんて話しながらも半分あきらめていたところ、「いた!」という母からの連絡がありました。

テレビの下には高さ10cmくらいの、リモコンを入れるためだと思われる空間がありました。
母も疲れて椅子に座りふとテレビの方をみてみると、そこの奥に入っていたということでした。
目線がちょうど合ったとか。

確かに、そのちょっとのスキマの奥に丁度ぴったり収まっていました。

初めからドアのスキマから逃げたわけではありませんでした。

「逃げたのを見たのか?」と聞くと見ていないということでした。

なんと人騒がせな・・・

つづく

 

 

人間の光と影-影(2)

鬼怒川温泉のホテルについた初日は、なるべく空いているうちに早めの4時くらいに温泉に入りました。
久しぶりの温泉、とてもくつろぎました。

さすが鬼怒川温泉です。温まりました。

夕食の時間になり、早めに食事室に行きました。

被災者と一般の客は別な部屋でした。
当然出されるものも別でした。

その日のメニューは何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

フライは好きですのでおいしくいただきました。

次の朝の食事は、ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は食券をもらって近所の蕎麦屋か食堂などで食べました。
そばが好きなのでほとんど蕎麦屋でしたが、タヌキそば、きつねそば、ラーメン、ざるそば などから選べたと思いました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。

今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

そして次の日の朝になりました。
今日は何かなぁと思いきや。
ご飯、シャケの切り身少々、納豆、漬物少々、お茶でした。

お昼は蕎麦を食べました。

そしてまた、夜ごはんになりました。
今日は何かなぁと思いきや。
何かのフライ、ご飯、味噌汁(具は少なくそれに対して汁多し、おそらく朝の残り物)、漬物少々、サラダ少々、お茶でした。

以下同文・・・

テレビで出た福島県の旅館のおいしそうな食事を思い出しました。

1人あたり15万円ほどが支払われていたはずでした。
うちだって2人で月30万円ほどになります。それが定期的にです。
しかも当時は風評被害で一般客はほとんどいませんでした。
貴重な定期収入のはずではなかったでしょうか?15万って果たして安い金額でしょうか?

たまに一般客が宿泊していて隣の部屋でおいしそうなご飯を食べているのを見て、そのギャップをまざまざと感じました。

スポーツセンターでは無償でおいしい食事が提供されていました。
それは決して当たり前のことではなく、あくまでも自発的になされた人道的支援でした。
その根底には所長さんの被災者を助けたいという純粋な想いがありました。
だからボクたち被災者の健康も考えて料理も手配してくれたのだと思います。

しかし、そこのホテルの経営者は、できるだけ多くの利益をあげることしか頭になかったのだと思います。
だから最低限度のことだけをすればいいと考えたのだと思います。
別に被災者の健康など考える義理もないというわけですね。
事務的というか、あたりまえといえばあたりまえです。
ホテル経営者としての丁寧な対応はしてもらいましたが、人情は感じませんでした。

ただそれでも毎日ほぼ同じメニューはあり得ないと思うのはボクだけでしょうか?

みんな「もう見るのも嫌だ」「野菜が食べたい」と言っていました。

だからしだいにホテルのご飯は手が付けれらないまま残っていることも多くなりました。
食事、特に夕食は各自、自腹でファミリーレストランなどで何かを食べていたようです。
自分たちもたまにはそうしました。

それでもみんな「置いてもらえるだけでいいんですよ」と言っていました。
ボクはそうは思いませんでした。
もう一生あの ペット同室宿泊パイオニアの宿 として知られる 「きぬ川Kホテル」 に行くことはないでしょう!

もうそこをいかにはやく抜け出すかを考え始めました。
あのままではきっと病気になってしまったと思います。

つづく

 

 

「防護服」

はじめての一時帰宅がいつだったかは覚えていません。

ただ、震災のあった年の初夏から夏あたりだった気がします。

当初の防護服はかなり厚手のものでした。
警戒区域に入る際には、頭にはヘアキャップのようなものをかぶり、防護服上下を着用し、くつの上から袋のようなものを被せました。
首からは線量計。

ボクは下はジャージ、上はTシャツで行きましたが、帰りは全身汗びっしょりでした。
Tシャツを絞れば汗が落ちるほどでした。
ボクは次からは着替えを持っていきました。そういう人は多かったと思います。

そんなで何回か一時帰宅が実施されました。
3ヶ月に1度程度のペースだったと思います。

数回後には防護服も簡易化されていきました。

長袖、長ズボンであれば防護服も着なくてもいいようになりました。
でも防護服も薄手のものになりましたので、ほとんどの人は着たのではないでしょうか?

薄手の防護服は不織布で作られています。
後ろが透けて見えるほど生地は薄いです。

放射線を遮るというよりは細かい放射性物質が体へ付着するのを防ぐためのような気がします。

現在も一時帰宅の際は無償で提供されています。

夏用の防護服

写真で丸く写っている部分も穴はあいていません。
へこんでいる感じになっています。

 

 

「自動車検査証の有効期間の満了日の延長について」

MR2を持ち出した際、車検は切れておりました。

そこで特例として「自動車検査証の有効期間の満了日の延長について」という書類をもらってことによって公道を走ることが許可されました。

警戒区域からの自動車持ち出しの際にはこうした書類発行のために陸運局の方も待機していました。

 

 

小さな命 -シャム-

まだ寒い時期だったので半年くらい前のことだと思います。

夜になると近所でかすかに ねこの鳴き声がしました。
まだ子ねこの鳴き声のようでした。
ちょうど親ねこを探すような小さな声でした。
次の日も次の日も。

なんだろうと思い近所を散策してみました。

少しうろうろしていると・・・

見つけました!
ちょろちょろっと夜道を白っぽい小ねこが横切りました。

捕まえようと思いましたが逃げてしまいます。
でも、茂みに隠れているところを捕まえました。
まだ手のひらサイズでした。

鼻水をたらしてゼーゼー呼吸しています。
「捕まえた」

親もねこ好きなのでうちで飼うことにしました。

くしゃみをすると鼻水に血が混ざっています。
これは良くないな。

次の日に獣医に診てもらい抗生物質などもらってきました。
そして、しばらくはカイロと一緒に箱の中に入れておきました。

なかなか懐っこいねこでした。
すぐにおなかをだしてコロッとなってしまいます。
おなかをさすってあげると、ごろごろとなります。

まだ子供なのでトラと一緒に階段を上がったり下がったりして遊んでいます。

「シャム」と名付けました。

飼ってみると意外と鳴かないおとなしいねこでした。
捕まえた時はずっと鳴いていたからよっぽど寒かったのだと思います。

鼻水に血が混ざった状態は今から1ヶ月ほど前まで治りませんでした。
今も鼻水はたらしていますが、血は混ざっていません。

暖かくなればきっと治ると思います。

ただ体が弱いのかあまり大きくなりません。
結構食べているけど太りません。

壁紙をガリガリやってしまうのは困ったくせです。

貸家なので傷はつけられません。
壁の下側は段ボールでブロックしています。

さすがに4匹いると匂いは大変です。

大屋さんには2匹の約束で入居しました。
4匹いるのは絶対に内緒です・・・

ただ拾ってあげなかったらきっと次の日には死んでいたと思います。

トラもシャムも放っておく訳にもいかなかったので・・・

大屋さんごめんなさい

 

 

不思議な体験

これはウソ偽りなく本当の出来事です。

たぶん半年前くらいだったと思います。

いつも通り一時帰宅がありました。

家に入るといつものようにかび臭いにおいが充満しています。
泥棒が入ったような異変もなく先回来た時と同じ様子でした。

掃除機もありません。水も出ないのでぞうきんがけもできません。
焼け石に水かもしれませんが、少しでもきれいにしようと家の中をほうきではいていました。

突然、リーンリーンと電話が鳴りました。
何もなかったように母が普通に電話に出ました。
「もしもし」

受話器を取ったところ何も聞こえなかったそうです。

えっ?電気通ってないよね?

コンセントを確認しました。やはり安全のため抜いてあります。ブレーカーも下げてあります。
プッシュボタン式ではありますが、当然電話本体にバッテリーパックなどが入っているということもありません。

なんで鳴った?誰がうちに電話した?

その日はおかしいなーと話しながら帰宅しました。

そして数か月後、また一時帰宅がありました。

しばらくすると、リーンリーン。

「ボクが出るから」
電話に出てみると、全く何も聞こえませんでした。

勿論電気は通っていません。

鳴るはずのない電話が鳴った。動力源の電気も通っていませんし、しかも1年以上放置しておいた電話です。
そして誰がうちに電話したのかです。なぞは深まります。

不思議な体験をしました。

ちなみに、自宅の裏にはお寺と墓地があります・・・

人がいない間に、何か見えないものの住処になってしまったのでしょうか・・・

 

 

久しぶりの笑い声

まだスポーツセンターにいるころの事でした。

ある日、廊下で人の話す声が聞こえました。
ドアをトントン、それから話し声。
またトントン、話し声。
なんだろう?

今度はボクたちの部屋をトントンとたたく音がしました。

出てみるとボクと同じくらいでしょうか、30歳くらいの男の方が立っていました。
渡された名刺を見てみると、共同通信社の記者だということでした。

少し避難中の事を聞かれました。
それからアンケートを書いてくれませんかと頼まれました。

見てみると、避難してて不安に思っている事、今一番やりたいことは何か、などの質問事項が書いてありました。

さらっと書いて渡しました。

毎日大変だったのでそんな事があったこともすっかり忘れていました。

数週間が経ちました。

母が地元ではよく読まれている福島民報新聞を読んで、「ちょっとちょっとこれ見て」と笑っていました。

そこにはボクの書いたコメントが載っていました。
今一番やりたいことは何ですか?という質問に対するコメントでした。

「富岡町の会社員 猫之介 (35) 家に帰って、置いてきた猫と遊びたい 」

母は小学生みたいだと笑っていました。

新聞に載るなんて ちょっとびっくりしました。久しぶりに親子で大爆笑しました。

後日、以前の会社に復職した際にボクのコメントを読んだかみんなに聞いてみました。

誰も知りませんでした・・・

まぁ、そういうものなのですね。

 

 

それでも やはり人間なのです

ボクは東電もそこの社員も嫌いです。

昔からそうなのですが、地元にいる時も東電で働いている人たちはエリート気取りで若者も軒並みいい車に乗っていました。
その多くが通勤時間ともなると狭い町道であるにもかかわらずかなりのスピードをあげていました。
そうして小さな町なのに朝と晩に大渋滞を引き起こします。

結果的には富岡町は事故の多い街になっていました。それは紛れもない事実です。

今だって東電にはいろいろな不満や憤りがあります。

まずやっている事が常識はずれです。
自分たちは高い給料をもらっておきながら、今回の事故の賠償をめぐっても国から支援を受けています。
しかも電気料金を値上げするなどもってのほかです。

最近は賠償のことで電話をしてもとても事務的です。

「このたびは大変ご迷惑をおかけしております」と機械のような声が聞こえます。

こっちは、わからない事があるので電話をしているのに対応している人もあまり賠償について内容を理解していません。
何かにつけて「ちょっと待ってください」「ちょっと待ってください」何度も電話は保留になります。
詳しく聞いてみるとその度に上司に相談しているようです。

また、熊本県のコールセンターが対応していたりします。

申し訳ありませんが、熊本県の東電関係の人に福島県民の気持ちがわかると思いますか?
少なくとも東北の東電関係者であるなら少しはいいのではないかと思います。
事務的なのも納得してしまいます。

そして何度も何度も住所や名前や「申し出番号」を聞かれます。
違う部署に回されてもそのたびに何度も何度も。

東電には東電の事情があるのでしょうが、はっきり言って鬱陶しいです。

でも・・・  東電社員も人間なのです。

犠牲者からすれば怒り心頭なのですが、やはり人間なんです・・・

震災のあった2011年も年末になっていた12月のある日。警戒区域の自宅からMR2を持ち出すときのこと。

持ち出す途中の警戒区域内で突然エンジンルームから煙がでました。そしてエンジンは止まりどんどん速度は落ちていきます。

もう駄目だ・・・

そう思いました。

車を降りてエンジンルームをのぞきこみます。
MR2はミッドシップエンジンなので車体後方がエンジンルームです。

確かに煙が出ています。

再びキーをひねっても全く反応しません。

原因はいくつか考えられました。
エンジンが駄目になってしまったのか?それともダイナモなのか?メインヒューズ切れか?

一時帰宅の際と同じように車持ち出しの際にも国からトランシーバーをもたされていました。
何かあったら連絡するようにと事前に説明されていました。
立ち入り受付を行っていた広野町の体育館にはJAFも待機しているはずでした。

ボクはトランシーバーにむかって「もしもし、もしもし」「富岡町の猫之介です!」と話しました。

反応なし・・・

えー!壊れていました!
そんなことありますか!前代未聞です!

頭まで白い防護服をかぶりマスクをして目だけ出して、国道をあたふたあたふたしていると警察が来ました。

「大丈夫ですか?」
「車が突然動かなくなってしまって、トランシーバーもつながらなくて」

警察の方が試してもやはりトランシーバーは応答なし。使い方が悪いとかそのレベルではありませんでした。

本当に壊れているようでした。

「連絡をとってあげます」と警察の方が無線で広野町に連絡を取ってくれました。

数十分後JAFが来ました。

「突然動かなくなりました。エンジンかメインヒューズかダイナモなのでスターターパックをつないでみてください」

スターターパックをつなぐとエンジンがかかりました。

よかった!エンジンの故障ではありませんでした。ダイナモでした。愛車はまだ走ります!

「これ(スターターパック)をつないで走れば広野くらいは持つから」

こうして警戒区域を後にしました。

無事に広野町の体育館に着き、どこか近くの自動車修理工場にレッカー移動することになりました。

MR2は少し特殊な車なので、本当はディーラーがよかったのですがいわきのディーラーに電話したところ警戒区域から持ち出した車は受け付けないという事でした。

それで震災前に夜の森で営業していたある自動車修理工場が四倉で再開しているということでしたのでそこに修理を頼むことにしました。

修理工場の人が来るまでに駐車場にいた東電社員の方が声をかけてくれました。

「大丈夫ですか?これはRX-7じゃないですか?」
ムッときました「MR2です!」

「あっ、そーだねー」と

それから励ましてくれて、しだいに心もほぐれ話がはずみました。

あー、東電の人もやっぱり人間。みんな悪い人ではないのだなーと初めて感じました。

名前を聞いておけばよかった。少し歳のいった人でとてもいい人でした。

搬送車に乗せる時もMR2を押してくれたり助けてくれました。

ありがとう

それからはなるべく東電社員と話す際もまず「東電の人でもいい人もいるのだから」と自分に言い聞かせます。

でも、つい、カツとなってしまう事があるのも事実です。

「罪を憎んで人を憎まず」

そんな言葉が頭をよぎります。

 

 

先の見えない不安

今市青少年スポーツセンターではとてもいい待遇を受けました。

朝には毎日ミーティングがありました。
そこでは所長さんのあいさつや、避難物資の連絡などがなされました。

そのあと階ごとに集まって被災者どうしの話し合いがなされました。
どこのスタンドがやっていたとか、年寄りが多いから子供は夜は静かにして欲しいなどの要望がなされることもありました。

1階には新聞やテレビもあり情報収集ができました。
しばらくするとパソコンと電話も設置されました。自由に使用することができました。
新聞もいただくことができるようになりました。

地域のみなさんやボランティアの皆さんからはいろいろな支援を受けました。

勿論古着ではありますが、衣類。それからミネラルウォーター、カップラーメン、日用品。
本当にいろいろなものをいただきました。
原発被災者はほとんどが着の身着のままで避難してきました。だから古着でもどれだけ助けられたか。
まして食料品は大変貴重な物でした。

地元の温泉からの招待もありました。
ボクも1度だけ行ってみました。ただ、あのような時だから正直温泉に行っても気分的にはのんびりはできませんでした。それ以上の先の見えない不安がありました。
東照宮などの観光も計画されましたがボクはなんだか行く気力もありませんでした。

2,3週間するとガソリンスタンドの営業も始まりました。
それからは母と近くのショッピングモールに行ったり、本屋に行ったりしました。
本を読んだり、お菓子を食べたりできる事がどれだけうれしかったことか。

栃木県は東京に近いから立ち直りも比較的早かったのだと思います。

しばらくすると県や東電の人も来て現状の説明などがなれさるようになりました。
ただ自分はもう東電社員の顔すら見たくなかったので行きませんでしたが。

よくものこのこと来やがったなというのが本音でした。

今考えれば説明に来なければそれはそれで問題だったなと思います。
説明に来て、まぁ当然のことでした。

季節はすでに春。サクラも咲き、そして散っていきました。
寒い冬も去り、本当だったら1年で一番何というかウキウキする季節ですね。
当時の自分は当然とてもそんな気分ではありませんでした。

そうこうするうちに約1ヶ月が経ちました。

毎日先の見えない不安に襲われました。
いったいこれから先、自分たちはどうなるのだろう?
ねこは?仕事は?家の事は?

気を紛らわすために雑誌を読んだり、昼寝をしたりしていました。

そうした時、被災者が温泉施設に移り始めたという情報を耳にしました。

町だったか県だったか国だったか忘れてしまいましたが、とにかく旅館ないしホテルに1人当たり月15万ほど支払うことによって食事と住むところを提供するということでした。

福島県民の多くは飯坂温泉に移って行ったようでした。

テレビでその状況を目にしました。
とてもおいしそうなご馳走が提供されていて、被災者達は一時の安寧をえている様子でした。
「同じ福島県民だから、困ったときはお互い様。赤字覚悟でおいしいものを提供しています」と話していた女将さんもいました。

あー、いいなーと思いました。
ホントのところは、当時は温泉宿も風評被害により宿泊客が減っていたので、被災者を泊めれば従業員を遊ばせておくこともなくなるので喜んでいたようでした。
持ちつ持たれつだったのですね。

スポーツセンターでもとてもよくしていただいていましたが、ボクも早く温泉に移りたいと心の底では考えました。

そしてボク達も鬼怒川温泉に移ることになりました。

あえてホテル名は記しません。

そこで自分たち被災者は正直言って不満の残る待遇を受けることになりました。

つづく

 

 

風評被害

今回の原発事故ではじめて風評被害という言葉を耳にしました。

原発事故は日本全土に影響しました。
つまりは単なる1つの企業が日本全土、特に東北人に多大なる迷惑を及ぼしたという事です。

それでも平然としている東電はいったい何様なんでしょうか?

少し前まで言っていましたが福島第二原発を再稼働するなどよく言えたものです。
自宅を追われた自分たちからすれば、はっきり言って信じられません。言語道断です。

当時、福島県民は辛酸をなめさせられました。

ある県民が、いわきナンバーで東京のコンビニに入ったところ出ていくように言われたそうです。

いわきナンバーであるだけで車に傷を付けられたそうです。

福島県民の子供が避難先の学校に転校したら、「放射能出ていけ!」と言われたそうです。

栃木県でも震災直後は原発被災者だと言うと簡単には民宿にも泊まれませんでした。

同じ日本人なのになんでなのでしょう?
お互い正しい知識がなかっただけなのでしょうけど。

福島県民が何か悪いことをしたのですか?自分たちが一番の犠牲者なのですよ。東京に電力を供給するために犠牲になったのですよ。

恩も忘れませんが、受けた仕打ちも忘れません。