昔の思い出

早いもので地震から1年と8ヶ月が経ちました。

短かったような、長かったような。

いろいろな事がありすぎて2年前の自分と比べたらきっと別人になってしまったかもしれません。

いろいろな人生経験は人の成長を促したり、あるいはあまりの絶望ゆえに人の心を打ち砕いて立ち上がれなくさせてしまうこともあるかもしれません。

被災した多くの人がまた再び幸せになりますように・・・

自分はすこしづつ前向きに生きられるようになってきました。

分野は違えど以前からの職(機械設計)にも就くことができました。

それはすごく幸いなことでした。

それに鉄道関係の開発ですのですごくやりがいがあり楽しいと感じています。

物を作るというのは責任もありますし、上司から怒られることもしばしばです。

でも充実した毎日を送らせていただいています。

職場も片道20分はかかりますが歩いて通うことができます。

走行距離ばかりあがってしまって車が痛むなんてこともなく、朝晩のラッシュで怖い思いをすることもありません。

最近は日が沈むのも早くなってきました。

帰りはすっかり暗くなってしまっています。

おそらく多くの人は地方の暗い道を一人で歩くのは少し不安に感じるかと思います。

でもなぜか自分はまったく不安を感じません。むしろなぜか落ち着きます。

なぜなんだろう。

ふと昔の記憶がよみがえりました・・・

もう本当に30年前ほどになるでしょうか?

父親はアル中です。現在も入退院を繰り返しています。

当時父親は40歳ほどで自分はまだ子供の6歳程度でした。

父親は毎晩のように酒を飲んでは暴れていました。

言葉と身体的な暴力の毎日でした。

よく父親に言われていたのは「おまえは橋の下から拾ってきた」というものでした。

6歳程度の子供が毎日そう言われたらどう感じますか?

自分ももしかしたたら本当にそうなのかと思うこともありました。

暴れて家の窓から自分の教科書などがはいったランドセルを放り投げることもしばしばでした。

教科書も筆入れもばらばらに道にちらばりました。

それを毎回毎回1つ1つ拾う子供の気持ちを考えたことはありますか?

2人兄弟の兄にはよくお菓子を買ってきました。

自分にも買ってくることもありましたが、そういうときは床にばらまきました。

子供の自分はやはりお菓子を食べたかったので床に落ちたものを1つ1つ拾って食べました。

テレビも見せてもらえませんでした。

でも当時はドリフターズや川口探検隊とか西部警察とかとてもおもしろい番組が多くて見たかったです。

だから隣の部屋からふすまを少しだけ開けてのぞくように見ていました。

それでも見つかるとどなられました。

蹴られるのは日常茶飯事でした。トイレも入れてもらえませんでした。

首元に包丁を突きつけられて「殺すぞ!」と脅されました。「やれるものならやってみろ!」本当に死も覚悟していました。6歳程度の子供ですから切られたら、いさぎよく死ぬしかありません。

だから父親が帰ってくる時間になると父親が寝るころまですっと1人で夜道をさまよっていました。

トイレも公園のものを利用しました。

自分にとって家よりも夜道のほうが落ち着ける場所だったのです。

自分の心の奥にはまだそのころの自分がいるのですね。昔のことがふと頭をよぎって夜道が落ち着ける理由がわかりました。

あまり昔のことも思い出さなくなってはいましたが、何かの拍子に思い出してしまいます。

当時、正直死のうと思ったこともたびたびありますし、家出もしたこともありました。

でもやはり子供だったので死ねませんでした。勇気がありませんでした。

家出しても結局は近くをさまようだけで終わってしまいました。学校の先生や母親が探しに来て結局連れ戻されました。

自分の小学生時代は毎日がこんな生活でした。

母親はもちろん優しかったのですが、暴力的な父親の前ではやはり無力だったのかもしれません。

母は母なりにかばってくれたので今でも感謝していますし、だから同居もしています。

残念ながら自分は人に誇れるものは何もありません。

でも今考えると「よくやったね」って当時の自分をほめてあげたいです。

今でも1晩中町をさまよっても何も不安は感じません。むしろ心穏やかな自分を感じます。

猫之介

投稿者: 猫之介

富岡町の住人です。原発事故により避難生活を余儀なくされています。かつての愛猫のしま次郎を探しています。どうか無事でいますように・・・

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